明治、大正時代の政治家山縣有朋の別荘として造営。
庭園は施主山縣有朋の指示に基づいて、七代目小川治兵衛により作庭された近代日本庭園の傑作。
それまでの池を海に、岩を島に見立てる象徴主義的な庭園から、里山の風景や小川そのもののような躍動的な流れをもつ自然主義的な新しい庭園観により造営されました。
苔の美しさが京都の庭の美点といわれてきましたが、山縣有朋は苔よりも芝生を好み、無鄰菴の庭園は当時のイギリスなどに見る自然風景式の庭園や、日本の里山の風景にも近しいものがあります。
庭は、奥へ行くにしたがって、里から野へ、野から山へと、山深くなっていく。そうした構成になっており、木々も大きく、山中の林のようになっていきます。
まさに日本の原風景。
奥には三段の滝がありますが、京都の醍醐寺三宝院庭園にある、三段の滝を模したものと言われています。
皇居が東京に遷り、経済の衰退をたどる京都を活性化させようと行われた明治の大公共事業、琵琶湖疏水開通。それに政治家として関わった有朋は、この地で最初に別荘を築き、疏水の水を直接引き入れました。
無鄰菴庭園を皮切りに、この周辺には、琵琶湖疏水のゆたかな水をつかった近代日本庭園が、次々とつくられていきました。
南禅寺にある琵琶湖疏水の水路閣